原発事故へのさまざまの意見

〜聞き飽きた言葉「想定外」が事故の元〜
(停電、節電の中で育った老人たちの提言)

私の友人達のほとんどは、いまは第一線を退いていますが、その昔は勤めていた企業の発展に尽力した、ワーキングホリックの働き虫たちです。

4月に行ったゴルフコンペもこんな連中の集まりで、ゴルフの腕はともかく、現役時代の自慢話は相当のものです。

確かに彼らが一線で仕事をしていた40年前、40歳代の頃、日本は高度経済成長の真最中でビジネスマンの目標も、対前年比20%、30%向上を目指すなどの計画が出せた時代でした。

そんな連中ですから、今の日本経済の発展の鈍さや、政治の貧困で右往左往している現状、原発放射能で解決策がないことに我慢できない人間が多いのです。

ところでこの仲間が妙なことに、現役時代は電気関連,または電機機器関連で仕事をしていた人間が多く、今回の東電福島の原発事故に対してもいろいろな立場で意見が戦わされます。

問題の放射能漏れや、格納容器の損害処理、冷却や炉心溶融の危険、最終段階での処置方策、などなど専門的に対応策の方法や、停電に繋がる供給電力の実際能力と市場対応などについて、それぞれ一家言あり、発言もそれなりに重みがあり、説得力がありました。

中にはこの間まで、原子力発電に関係する組織の経営トップに在籍していた人間もいたりして、東電の初期対応の間違いを指摘する評論家みたいな発言もありましたが、あまりに専門的な話なので省略します。

ただ分かっていることは、40年前にこの施設を設計したときに想定していた、全ての災害が起きる判断に大きな間違いがあったことを認めていました。

「君は以前今の日本の原子力発電は、事故対応がよく出来てると言ってたな」
私の皮肉な質問に

「安全対策にはかなり自信があったが、いいわけ言葉の常用語になっている、今度の災害の大きさが『想定外』と言う言葉を使わせてくれ」との返事で、頭を下げられた。

ある程度、大きな災害の予測も、絶えず原発建設の議論の対象になったが、すべて最大予測数字で対応すると、建設費が途方もなく高くなるので、採算ベースも重視して、災害想定数字を作ったようです。

これはよく新聞雑誌などで論評されていることで、いまさら原子力発電の友人に聞かなくても知っていましたが「想定が甘かった」と彼も認めていました。

そうなると天災による被害とは言えず、完全に人災です。

人災であったら誰か責任者がいるはずだ、誰が責任を取るべきなのかが問題になります。

よく「責任の所在が何処にあるか」「事業者責任」とか「社会的責任」「道義的責任」「経済の損失責任」なかには「犯罪責任」にまで飛躍します、今回は事故が起きてからの対応が拙劣だったと「政治の責任」「指導力責任」「事後責任」「原子炉管理責任」「東電の対応責任」被害住民への「情報伝達責任」などなど、東電はもとより現政権への責任を追及する声も聞こえます。

しかし今までには経験のない巨大地震、最大津波、原発大事故が一緒に起きたら、それをスマートに非の打ち所もなく解決することなど、誰にも出来ないのではないでしょうか。

政治の責任だ、能力のない政権だからだと、他人事のようにあら捜しだけをやっていては、誰にも解決は出来ません。

責任の所在を言うなら、原子力に関係した私の友人のよう、事前の調査が甘かったことに帰します。

すなわち「事前責任」なのです。

その「事前責任」には、日本のエネルギー政策を原子力で行おうとしたその頃の政治の責任が最も重い。

意外とそれは論議の対象にならないし、また責任者も出てきません、さらに国民も容認してるのでしょうか。

事故対応の拙速を批判している、政治家も評論家も学者も、またジャーナリズムも東京にいて、原発で作られた電気を使ってのうのうと暮らしていた連中です。

過日テレビのドキュメンタリー番組に出演していた、高い放射能にさらされながら、事故拡大を防いでいる作業員の言葉の重さを思い出します。

「私たちはこの発電所で働いていました、今事故が起きて危険だからといって逃げ出すわけには行きません、対応が悪いか良いかは結果です。現場の事情は評論されるよな悠長なものではありません、毎日が戦いです、何とかしようと睡眠もとらずがんばっています、それが使命です。」

現場から遠く離れたところで、論評するより現場は深刻なようです。

それだけに原子力発電の事故の恐ろしさをもっと国民全体が認識しておくべきだったと思います。

私たちの世代が企業戦士として仕事をしていた頃は、効率とか費用対効果とか最小の投資で最大の利益などが、ビジネスの合言葉でした。

その頃開発設計した原発も、安全より効率と投資効果がより重要なテーマだったのでしょう。

それゆえ、事前調査の想定数字が、地震の規模がマグニチュード8、津波の高さが5.7メートル、と予測しての設計をしたようです。

115年前の同じ三陸沖地震で起きた津波が、高いところでは30メートルを越えていた記録を無視したことになります。

まさに事前責任です。

そんな無茶な設定で、いままで不思議に問題を起こさないできた、東電の福島第一原発施設だったのです。

ところで恥ずかしい話ですが、福島県にこんな大きな原子力発電所が、2箇所もあったことを私は知りませんでした。

まして設置条件の地震津波対策数字が、想定外になるような低い数字であったなど、国民の多くが知らなかったでしょう。

私の友人によれば「大きな地震と津波の心配はあったが、誰もそれを言い出せない雰囲気が社内にあった。安全だと言い切っている手前、不安があるとはいまさら言えなかった」ともらす。

また「そもそも長いこと使用していて、そろそろ限界に来ていた施設なのだ」と、非常に危険をはらんでいた施設だったようです。

またいままでも小さな事故が起きて問題になったこともしばしばあったが、世間には発表されず学者の間でも議論が起きませんでした。

「非常用電源がすべて海側にあったことも間違いだし、緊急時の対策としては非常用が一つしかなかったのも間違いだ」評論家も述べているような、欠点を指摘する友人もいます。

電気関係に在籍していた別の友人は「今回の地震と津波の被害は、気象庁と地震学者の怠慢だ」と言い切ります。

「三陸沖の大陸棚プレートの、太平洋プレートと北アメリカプレートがしのぎを削っていて、いつか大地震が起きると想定されていたのに、その対策に言及しなかったのが間違いだ」

「予測はしていたが、マグニチュード9とは思わなかったらしい、また三陸沖の海底プレートが動く海溝型地震も防災対策の基本にはあったようだが、あちこちのプレートが一編に地震を起こす予想はなかったらしい」

他の友人はそのようにいい「確信がない限り地震予測は出しにくい、まして大津波が押し寄せるから注意しろ、などと事前に知らせることはもっと難しい」

「もっとも、三陸沖の地震は想定していたのだが、一昨年マグニチュード7.5の地震があり、たまっていたエネルギーがそれで放出したと、勘違いしたらしい」

さまざまな意見がでます。

ところで「関東圏の電気供給量はどうなのだ」私の質問に

「大丈夫だよ、東電が言うピーク時の6500万キロ使用は、今年はないよ、みんな電気の無駄使いを止めようとの意識が出来たし、産業から家庭まで上手に振り分けが出来ると思う、今までは自分勝手に使っていたのが、協調と節電で乗りこられる」

「われわれの世代は、戦時中から戦後、停電の経験をいやっと言うほど味わったから、節電の気持ちがあるが、今の世代はどうかな」

「現在供給能力は少なくとも5500万キロは確保できるので、クーラーの温度を1度下げただけで、10%消費量が減るし、トイレの便座暖房を切っただけでも節約になる、電球をLEDに替えればこれも効果的だ、この夏なんとか乗り越えるよ」

「電力の無駄をなくすには、エコポイント制度の復活だよ、2000年以前に買った電化製品を、現在の省エネタイプに買い替えさせれば、それだけで全体で家庭消費の10%ぐらいの節約になるよ、ことにクーラーと冷蔵庫」

もと電機機器の営業をやっていた友人の提案です。

確かに現在の電気製品は開発時のものと比較し、電気使用量は格段に少なくなっています。

テレビにしてもブラウン管から液晶やプラズマに変わっていますし、電灯のLEDも画期的です。

これは科学の進歩で喜ぶべきでしょうが、考えて見ますとわたしたちの生活の全てが、電気で動かされていることを改めて知ります。

家庭生活から、交通から、娯楽から、買い物から、医療から、そして物の生産まで、すべてが電気です。それは生活の合理性、利便性、省力性、快適性などを目標とし、それが商業主義の波に乗って拡大し、今やそれを止める手立てはありません。

すべてが電気が基本にある文化であり生活です。

それだから、科学の発展から社会文化の創造、政治経済の価値判断論争まで、電気電源開発と供給の方式が論点になります。

国際的に見てもエネルギー力、発電力が、国力に比例するようにもなっています。

それゆえ、エネルギー源の少ない日本が、原子力に依存する政策をとった選択をせざるを得なかったのでしょうが、被爆国日本がそれに踏み切るにはまず安全がもっとも大事であったはずだが、経済効率の建前の前で論外とされた?

友人たちの話は、それからそれへと飛躍しますが、この原子力発電の是非論は、どれだけ費やしても終わりませんので、これでやめます。